読書の木

『トラジェクトリー』解説|芥川賞ノミネートの理由とあらすじと感想、あなたに届けたい一冊

「難しそう」と思わなくて大丈夫。今、そっと触れてみてほしい物語。

「芥川賞ノミネート」と聞くと、少し身構えてしまう人もいるかもしれません。
「難しそう」「純文学って自分に関係ない気がする」
——そんな声を、私は何度も耳にしてきました。

でも、だからこそ今、そっと触れてみてほしい。
『トラジェクトリー』は、特別な知識がなくても、私たちが日々の中で感じるちょっとした違和感や孤独をそっとすくい上げてくれる物語です。

本記事では、あらすじ・感想・類似おすすめ本・読者タイプまで詳しく解説します(読了時間およそ5分)。

🌳『トラジェクトリー』

著者: グレゴリー・ケズナジャット
掲載誌:文學界 2025年6月号
出版社:文藝春秋
刊行年:2025年


📖あらすじ

アメリカ出身の英会話教師ブランドン。名古屋の英会話スクールで働き始めて3年、生徒との間に見えない壁を感じていた。

そんな中、三十代後半の会社員カワムラが書いた「アポロ11号」のエッセイが、ブランドンの心を揺らす。

星空に憧れ、都市の明るさのせいで星を見られなかった少年時代。英語ではなく“話を聞いてほしい”というカワムラの思い。

軌道を描くように交錯する、ふたつの孤独とささやかな優しさ。言葉の先に見えるものを描いた、胸に残る物語。


この本を読む前に知っておきたい4つのこと

  • 通じているはずなのに、伝わらない
    アメリカから来た英会話教師ブランドンと、日本人の生徒カワムラ。
    「話しているのに、心はすれ違う」そんなもどかしさが、物語の静かな軸になります。
  • 宇宙への憧れと、届かない想い
    カワムラが書くアポロ11号のエッセイは、幼い頃に抱いた星への憧れの記録。
    それは、叶わなかった夢や人生の欠片と重なり、胸を締めつけます。
  • 派手な展開はない
    けれど、日々の会話や沈黙の向こう側に、他者との距離や自分自身の輪郭が、少しずつ立ち上がってきます。
  • 「軌道」という名の、ささやかな証
    タイトルの“トラジェクトリー(軌道、軌跡)”は、届かないからこそ残る足跡のこと。
    ページを閉じたとき、胸にそっと小さな余韻が残ります。

🚨注目の理由・選評まとめ

  • アメリカ出身で日本語で物語を紡ぐ作家
    グレゴリー・ケズナジャットさんはアメリカ出身。母語ではない日本語で小説を執筆する、その独自性がまず大きな注目を集めました。
  • 翻訳を前提とした独特の日本語感覚
    選考委員たちは「翻訳されることを前提とした独特の日本語感覚」を評価。
    母語話者とは違う視点から編まれる日本語は、時に新鮮で、時にぎこちなくも美しいと評されました。
  • 異文化間の微細なズレを描き切る繊細さ
    単なる異文化交流や国際ドラマにとどまらず、言葉の奥にある孤独や、わかりあえなさ、共感の届きにくさを丁寧に描いています。
  • 私たち自身の話でもある
    ブランドンとカワムラの交流は、異国の話であると同時に、誰もが抱える「伝わらなさ」や「距離感」の物語。異文化を超えて普遍的なテーマを抱えています。
  • 過剰な説明を避け、余白を残す文体
    物語は派手な事件を起こさず、静かに進みます。読者が想像で補い、立ち止まり、考える余白を残す文体は、本作の大きな魅力の一つです。
  • 読む人の立場や経験で感情が変わる
    読む人の背景や立場によって、響く部分や受け取る感情がそっと変わっていく。そんな繊細さが、読後の余韻を深めています。


🫶こんな人におすすめ

  • 異国にいるような心細さを知っている人
  • うまく言葉が届かず、孤独に胸が痛んだことがある人
  • 関係を続けたいのに、そっと立ち止まってしまったことがある人
  • 静けさの中に滲む優しさや痛みに寄り添いたい人
  • 読後、胸の奥に小さな余韻を感じてみたい人


📚この本が好きならこちらもおすすめ

『コンビニ人間』村田沙耶香

おすすめ理由
社会の中での「普通」や「適応」に疑問を抱きながらも、
淡々と日常を営む主人公の姿が、
ブランドンやカワムラの「伝わらないままの共存」と響き合います。

【あなたの”普通”は本当に“普通”ですか?】
36歳独身、恋愛経験なしの古倉恵子は、大学時代からコンビニで働き続けている。
マニュアル通りに笑い、客をさばき、完璧に「店員」を演じる彼女は、
社会に適応できない自分を、コンビニという場で支えてきた。
だが、寄生先を探す男・白羽との奇妙な同居生活が、
彼女の「普通」を少しずつ揺らしていく——。

『蹴りたい背中』綿矢りさ

おすすめ理由
互いに「余り物」で、うまく通じ合えない二人の関係性は、
ブランドンとカワムラの、言葉が届かないまま続いていく距離感に重なります。
切なさと痛みを含んだ不器用な交流が共鳴します。

【まだ、他人に期待しているの?】
地味で目立たない高校生・ハツは、教室の中でただ浮いている。
そんな彼女の前に現れたのは、クラスで余り物のように孤立する、
人気モデルに夢中の男子・にな川。
うまく話せない、距離のとり方がわからない、
それでも一緒にいるしかない二人のぎこちなさ。
やり場のない衝動を抱え、ただ背中を蹴りたいと思った。
10代特有の不器用さと孤独を、鋭く、淡く、切なさと痛みをもって描く芥川賞受賞作。


『トラジェクトリー』を読んで ──はるのぽつり。

言葉って、なんだろう。

通じているはずなのに、すれ違ってしまうこと。
同じ日本語を話していても、同じ空間にいても、
「伝わった」と心から思える瞬間って、案外少ないのかもしれません。

『トラジェクトリー』は、そんな私たちの曖昧さや不器用さを、
異文化の間で生きる人たちの姿を通して、そっと照らしてくれる物語です。

アメリカから日本に来た英会話教師・ブランドンと、
英語を学ぶことを口実に「話を聞いてほしい」だけのカワムラ。
彼らの間に流れるのは、言葉の通じない苦しさだけじゃない。
むしろ、「言葉があるのに伝わらない」という、誰もが感じたことのある寂しさです。

読んでいて思い出したのは、私自身のすれ違いの記憶。
わかってほしいのに、うまく言えなかったこと。
相手の沈黙に、勝手に期待して勝手に傷ついたこと。
きっとみんな、そういう場面を抱えて生きているんだろうなと思いました。

この本は、大きな事件が起こるわけじゃありません。
ただ、会話や沈黙、視線やうつむき、そんな小さなものたちが積み重なって、
静かに胸に問いを残していきます。

難しそうと思うかもしれませんが、文章はとても優しく、すっと心に染み込んできます。

「あなたにとって、言葉は何ですか?」

ページを閉じた後、そんな問いが、そっと心に浮かびました。
もしあなたが、誰かと通じ合えないもどかしさを知っているなら、
きっとこの物語の中に、寄り添ってくれる一行が見つかると思います。