ハルノキ短編小説『消えなかったもの』
はじめに
この小説は、ある一曲の歌に心を動かされて、生まれた物語です。
曲名はあえて書いていませんが、
その歌を知っている方なら、きっと気づいてもらえるはず。
言葉にならなかった気持ち、
伝えられなかった想い。
そんな“心の中に残ってしまったまま”の何かを、
静かに、そっと、形にしたくて書きました。
よかったら、
自分だけの“あの日”を重ねながら、読んでみてください。
本編
第一章 雨に流れた約束
昨日の土砂降りの跡が、まだアスファルトの上に生々しく残っていた。
夕方になっても地面はじんわりと湿り気を帯びていて、風に乗って運ばれてくる匂いが、どこか切ない。
あの約束が、ほんの少し前の出来事だったことを信じられないくらい、私はぼんやりと立ち尽くしていた。
あの日、花火大会に行くことに決めたのは、誰かの提案だった。
みんなで行こうって、他愛もない話の流れだったけど、私にとってはそれ以上の意味を持っていた。
君に会いたかった。ただそれだけの理由で、私は浴衣を着る準備をして、心のどこかで「この日が特別になりますように」と願っていた。
けれど、空はそれを許さなかった。
午後からぽつりと降り始めた雨は、次第に本降りになって、私たちの予定をあっさりと飲み込んでいった。
中止の連絡が来たのは、ちょうど髪をまとめ終えた頃だった。
「残念だね」って、君から来た短いメッセージ。
私は「そうだね」とだけ返して、スマホを伏せた。
花火が見たかったわけじゃない。君に会うための口実が、花火大会だっただけ。
それを、どうして言葉にできなかったんだろう。
きっと、あの時言えば、二人だけの約束に変えることだってできたかもしれないのに。
私の中に残ったのは、浴衣に触れる前の手の温もりと、流れていった時間の悔しさだけだった。
それからの日々は、驚くほど淡々としていた。
何気ない一言で、心が近づいたはずだったのに。
「おはよう」や「おやすみ」の一言がなくなるだけで、こんなにも空白が大きくなるものなのかと、私は初めて知った。
長い、長い、長い。
君に会えない日々が長すぎて、時計の針が遅れているのかと疑いたくなる。
会わない時間が、距離をつくっていく。
言葉にすれば済むことなのに、その言葉さえも浮かんでこなくて。
たった二文字だけでいい。ただ、その言葉だけを伝えたかったのに。
そんなふうに思っていたら、ふいに君の姿を思い出した。
胸の奥がきゅっと締め付けられて、私はまた、何も言えなかった自分を責めてしまう。
言わなきゃって、何度も思ったのに。やっぱり、あの時、言えばよかったんだ。
第二章 届かなかった言葉たち
いつからだろう。
君の名前を、心の中でそっと呼ぶようになったのは。
教室の窓から見えた空は、思いのほか高くて、やけに白くて。
風に揺れるカーテンの音が、なんだか寂しく感じるのは、きっと君がいないから。
君と「会えない日」が続くたびに、何でもない言葉を交わせていた「日常」が、どれほど愛おしかったのかを思い知らされる。
「おはよう」も、「また明日ね」も、当たり前だったはずの言葉が、今では幻みたいに遠い。
グラウンドの前を通るたびに、耳を澄ます。
蝉の合唱に混じって、君の声が聞こえないかと。
無意識にフェンス越しを見上げるたびに、自分の心がまだ、そこに君を探していることに気づいてしまう。
あの日、日焼けした笑顔で、眩しそうに笑っていた君。
夏の陽差しの下で見たその横顔を、私は何度も思い出す。
そして、思い出すたびに胸の奥がきゅっと締めつけられる。
言えなかった言葉が、喉の奥で引っかかって、うまく呼吸ができなくなる。
あのとき、ほんの少し勇気があれば。
「残念だね」って君が送ってきたメッセージに、私も「そうだね」なんて返さずに、本当の気持ちを言葉にできていたなら。
「君に会いたかったから行きたかったんだよ」
「私、あの日、君に会えるのをずっと楽しみにしてたんだよ」
そんなふうに、子どもみたいに素直に言えていたなら。
でも私は、気づかないふりをして、作るチャンスだった“ふたりだけの約束”を、わざと見過ごしてしまった。
近づいていたはずの距離は、今ではずいぶん遠く感じる。
君の声が聞こえない時間が長くなるほど、言えなかったことが胸の中で増えていく。
「会いたい」だとか「好き」だとか、それだけでいいのに。
それすら言えなくなる自分が、もどかしい。
君と、もう一度ちゃんと向き合えるときが来たら、私はこの胸の中に積もった想いを、言葉にできるだろうか。
でもたぶん、まだ私は怖がっている。
もしも気持ちを伝えて、何かが終わってしまうのだとしたら。
その先の沈黙に、耐えられそうにないから。
だから私は、今日も何も言わず、空を見上げて、君のことを思うだけ。
どこかで、君も同じ空を見てくれたらいいな。
そんな願いすら、届かない気がして、胸の奥でそっと言葉を失くした。
第三章 夏の終わりに祈ること
線香花火が落ちるとき、ほんの一瞬、火花が強く揺れて、それからふっと、消える。
最後の輝きは、いつも、やけに綺麗で。
だからこそ、見届けたくなるのかもしれない。
そう思ったのは、今朝のことだった。
机の上に残っていた花火大会のチラシを、なぜか捨てることができなくて、引き出しの奥にそっとしまったあと。
私は、あの日に考えていたことを思い出していた。
あのとき私は、君に会いたくて、ただその気持ちだけを握りしめて、花火大会という名の“言い訳”を頼りにしていた。
誰かとじゃなくて、君と行くための理由が、どうしても欲しかった。
みんなで行こうっていう話に、迷いなく頷いたのも、君がそこにいたからで、
その先に、二人きりの時間ができるかもしれないって、どこかで期待していたからだった。
でも、花火大会は雨で中止になった。
当日、スマホに届いた「残念だね」っていう短い君のメッセージ。
私はそれに「そうだね」って返すしかなかったけど、本当はそれ以上の言葉を抱えていた。
「また今度」とか「二人だけで行かない?」とか、言えばよかったのに。
それができなかったのは、自分の気持ちに自信がなかったから。
誰かに恋をするって、こんなにも、勇気を要ることだったっけ。
毎日顔を合わせていたはずなのに、「おはよう」も「また明日」も、もう言えなくなって、
夏が終わる頃には、君がどこか遠い存在になっていた。
あのとき線香花火をしてたら、もしかしたら何かが違ってたかもしれない。
君と私、二人きりで。
静かに火花を見つめながら、何も言わなくても、何かが伝わった気がする——そんな夜が、もしかしたら、あったかもしれない。
だけど、それはもう叶わない。
君は今どこにいるんだろう。
新しい毎日の中で、もう私のことなんて、忘れてるのかもしれない。
私はまだ、「おはよう」って言える距離にいないまま、
「おやすみ」って送りたかった一言を、飲み込んだまま、
この夏を終わらせようとしている。
最後の線香花火を、自分ひとりで灯してみた。
細い火花が、ぱちぱちと静かに揺れて、私の指先から少しずつ距離を取るように垂れていく。
ひときわ強く輝いたかと思うと、そのまま、ぽとりと落ちた。
音もなく、ただ、何かが終わる瞬間だった。
私は、まだ君に会いたいままでいる。
平気な顔をして過ごしていても、心の奥では名前をそっと呼んでしまう。
まるで、それだけが、線香花火の火を絶やさないための祈りのように。
たとえばまた、来年も夏が来て。
もし、偶然、君に再会することができたなら。
そのときは、線香花火を一緒に灯したい。
今度こそ、二人だけで。
今度こそ、気づいてもらえるように。
小さな火が落ちたあとも、私の中の線香花火は、まだ消えない。
——完——
『消えなかったもの』のあとがき ──はるのぽつり。
誰かを思い出す時間って、
もう会えないってわかってるときより、
まだ会えるかもしれないって思ってるときの方が、
どうしようもなく、苦しいのかもしれないですね。
「言えなかった言葉」って、
時間が経てば経つほど、
胸の中でじわじわと大きくなって、
いつしか、その人の姿ごと、美しく残ってしまう。
この物語を書いていて、
「あのとき、もしも」っていう気持ちは、
ずっと胸のどこかで灯り続けるものなんだなと、
改めて思いました。
あなたにも、
“言わなかったけど、本当は言いたかった言葉”って、ありますか?
静かに燃える線香花火みたいに、
その想いがまだ、あなたの心の奥で、
そっと揺れているのなら――
きっと、それは、今も大切なものなのだと思います。